きいろいゾウ 西加奈子/小学館
その昔。少女は、病室できいろいゾウと出会った。青年は、飛ばない鳥を背中に刻んだ。月日は流れ、都会に住む一組の若い夫婦が、田舎の村にやってきた。妻の名前は、妻利愛子。夫の名前は武辜歩。ツマ、ムコさんと呼び合う、仲のよいふたりだった。物語が、いま、はじまる。最新にして最深の、恋愛長編小説。
ああ…このじわじわと私の中を侵食するものは何だろう。あたたかでやわらかで優しい感情。そうしてこみ上げてくるもの。それはきっと大切な人への思いが溢れてしまったからだろう。男性ならムコさんに女性ならツマに自分を重ねてしまったらもうそれは切ない。だって思い当たる事少なからずあるもの。
お互いを「ムコさん」「ツマ」と呼び合う若夫婦が田舎で生活を始める。ムコさん、ツマは実は本名。ムコさんの名は無辜歩(むこあゆむ)、ツマの名は妻利愛子(つまりあいこ)。このムコさんとツマの平和な生活が少しファンタジーをまじえて綴られる。微笑ましくあたたかい夫婦の日常。ツマの言葉の後にムコさんの日記が追う。互いのちょっと食い違う部分も愛嬌があってクスリとさせられる。あ、いいな、こんな夫婦。幸せだな。ツマのちょっと心配な部分もムコさんなら包んであげられるんだろうな、なんて読むのだ。…が、けれども、それは表面的なものでしかないことをやがて読者は思い知らされる。その暗雲は確実に青空を覆っていたのだ。事は思った以上に深刻だったのだ。それはムコさんの背中に刻まれた鳥にある。ある日ムコさんのもとに手紙が届き、ムコさんはツマを置いて東京へ旅立つ。ツマ宛に手紙を残して。
夫婦といえども互いの過去を全て知り尽くすことはたぶん困難なことだろう。自分を曝け出してこれが丸ごと私の人生だ、受け止めてくれ、なんてことそうそういきなり出来るもんじゃない。話したくない、話せない過去だってある。それは相手を傷つけるから。そして自分も傷つけるから。それを回避するためオブラートにくるんでそっと自分の中におさめておく。そこにくるまれた本来の姿を見つかるのを恐れるようにそぅっと。そして自らも見る事のないよう目を逸らせて。存在を忘れてしまうように。
ムコさんはその過去の自分と対峙するため旅立った。ツマを失うかもしれない。でも立ち止まったままではダメだと思ったから。ツマをまた取り戻したかったから。どちらにしてもこのままでは二人の平和な日常が消滅してしまうから。そしてツマもある決意をする。
どんなことがあっても二人の心は揺るがない、そう分かってはいてもやっぱり不安になってしまう。ムコさんの心がどこかへ留まってしまった時のツマの不安がたまらなく胸に突き刺さる。二人の幸せな日常が、訪れる冬の寒気に侵食されていくかのように二人の間にも冷たい風が通り抜ける。
赤の他人が生活を共にするのはやはり難しい。幾たびかそういう場面に遭遇する。本音で話したいけど話せない。ちゃんと気持ちを伝えたいのにどうしても上手くいかない。そうこうしているうちに溝がどんどん広がり深くなり、相手との距離が遠のいていく。素直に飛び込めない自分を躊躇させているものを取り払ってみれば実は意外に簡単に飛び越えていけるんだよ、そんなことをこの作品が教えてくれる。ムコさんとツマを温かく見守る人々との交流などもまじえてそれはゆっくりとだけど読み手にちゃんと伝えてくれる。この登場人物達一人一人のドラマも実にうまく絡めているのである。
何と言っても素晴らしいのが9歳の大地くんの存在である。ムコさんやツマにとっても、大地くんにとっても互いの出会いは互いを成長させる。中でも大地くんとツマの会話(その時のツマのムコさんへの思いは静かな感動を呼ぶ)、大地くんの手紙は秀逸。ぐっと胸に迫るものがあり、ついほろりとさせてくれるのである。こんな小さな男の子にこの夫婦は後押しされるのだ。大地くんの存在はだから絶対なくてはならない。
そして、忘れてならないこの作品の作中に差し挟まれる「きいろいゾウ」のお話し。実はこれがとっても辛くて胸が締め付けられるこの物語を緩和してくれている。この絵本の存在やツマが聞こえる動物の会話(カンユさんやコソクの会話は面白くてその登場を待ちわびてしまうほど)がファンタジー色を強くしているため、「?」が飛び交う読者もいるだろう。でもやはりこれも大地くんと同じくなくてはならないものなのだ。これら全てでこの『きいろいゾウ』なのだ。
最愛な人の存在を、その存在の大きさを改めて再認識させてくれる物語。奇跡の出会いを感謝せずにはいられない、とっても素敵な作品。じんわり生まれた感動は日に日に大きさを増す。最愛の人への思いの大きさと同じだけ大切な1冊になるだろう。
関連サイト
「きいろいゾウ」特集ページ
読了日:2006年7月24日
西さん初読です。有名な『さくら』を読もうと思いながらこちらを先に手に取りました。静かにじわじわとこの作品の良さが広がりつつあります。それはこの作品を読んだ後の感動の広がりの速度と同じなようです。読み終えた後もじんわりとそれが残っている。いや、むしろその広がりは日に日に範囲を広げている。1滴の感動が少しずつ少しずつ沁みていくような優しい広がり。とても素晴らしく素敵な作品でした。
西さん、ちょっと注目の作家さんかも。
⇒ ちづ (04/28)
⇒ 苗坊 (02/03)
⇒ かりさ (01/10)
⇒ タコ焼き (01/07)
⇒ かりさ (12/27)
⇒ みこ (12/25)
⇒ かりさ (12/09)
⇒ みこ (12/06)
⇒ みこ (12/05)
⇒ かりさ (12/01)