花宵道中 宮木あや子/新潮社
吉原の遊女・朝霧は、あと数年で年季を終えて吉原を出て行くはずだった。その男に出会うまでは…。生まれて初めて男を愛した朝霧の悲恋を描く受賞作ほか、遊女たちの叶わぬ恋を綴った官能純愛絵巻。
このところどうにもこうにも文章が上手く綴れず悶々としていた。脳の中で溢れ出る言葉をつかみ取り文章にしていくことがこんなに難しいだなんて。この手の平からぽろぽろこぼれていく言葉たち。
読んでは生まれる私の感情を言葉にし、文章にしていくというのは確かに難しい。
そして今また私はどうしてよいか途方に暮れてしまっている。『花宵道中』の感想をさて、どう紡げばいいのだろうかとこの胸に疼くものを上手く言葉にすることが出来ず、ただただ途方に暮れてしまっている。
第5回「女による女のためのR−18文学賞」大賞&読者賞W受賞した表題作「花宵道中」他、「薄羽蜉蝣」「青花牡丹」「十六夜時雨」「雪紐観音」5編の連作短編集。
江戸吉原で生き、散りゆく遊女たちの物語。官能小説なんだけど、官能なんて言葉は読んでいて一時たりとも感じなかったなんとも刹那的な愛を描いた物語。
読んでいてぎゅっと胸をつかまれたまんまで息苦しくて切なくて何で自分はこんなに涙流しているんだろうとか、この涙は彼女たちの同情の涙なのか、とかもう思考もぐちゃぐちゃになりながらここに登場する遊女たちの悲恋を思っていた。遊女たちばかりではない。彼女に恋した男たちもまた刹那に彼女たちを愛したのだ。
金の介在しない愛はご法度の遊郭にあって、惚れた男と女がただ自然に愛し合うことすら許されない。でも、だからこそその愛は燃えてしまうんだよなぁ。
生まれて初めて男を愛した朝霧の悲恋を描いた物語「花宵道中」は秀逸。この「花宵道中」を核にこれに続く物語はさらにさらに残酷な戦慄さえ感じる事実が待ち受けている。朝霧の愛した男・半次郎の人生もまた壮絶なものであり、その過酷な人生の末に朝霧と出会い女を初めて好いて惚れてこの朝霧とならば幸せな人生を歩けるかもしれない、そんな淡い思いを膨らませていたのに。ここでもやはり彼に待っていたのは残酷なものであって。
朝霧と半次郎を出会わせた青い牡丹がことさら美しく月に映える。朝霧の潔い決意、行き場を失ったこの深すぎた愛を全うするにはこれしかなかったんだろう。その壮絶なでもきっぱりした朝霧のことを思えばやはり私はさめざめを涙を流さずにはいられない。
これに関連した「青花牡丹」がさらに残酷に壮絶に「花宵道中」を思わせる。そうしてまた私は朝霧と半次郎の二人を愛おしく思ってしまうのである。
男女の悲恋とは少し異なる緑の三津への淡い思いを描いた「雪紐観音」もきゅっと切ない話しである。緑の三津へ寄せる恋心にも似たものが愛らしくいじらしい。
こんなに命がけに人を愛するってどんなだろう。こんなに好いているのに、惚れているのに互いに抱き合うことも出来ない思いってどんなだろう。どんなだろう。そんな思いに支配されてしまったらもう身を切られるような痛みや悲しみがどっと押し寄せてきてしまう。読み終えてなお私の気持ちは絡め取られて立ち行くことが出来ずにいる。
遊女たちの恋だけでなく、遊郭の華やかさその美しい彩りまさに目の前に遊郭の世界が展開されるかのような鮮やかな筆力。はっとさせられるその美しさだったり官能的なさまだったり(でもいやらしくないのだ。不思議と。あくまでもそこに美を感じるのだ)うっとりする世界がここにはある。
惚れた男を思いながら他の男に抱かれる。遂げられぬ思いをひっそり胸に抱いたまま。
装丁の美しさに惹かれて読み始めてみたら見事に引っ張られて抜け出せなくなってしまいました。とにかくこの胸が疼いて仕方なく、未だに気持ちを残したまま立ち直ることが出来ずにいます。
遊女たちの悲恋を描いたものですが、遊郭の世界やそのしきたり、遊女たちの生活なども事細かに描いていて、なるほど〜と新鮮な気持ちで読めます。そして構成の見事なこと。何一つきっと無駄なものも足らぬものもないのではないかというくらいの緻密な構成に唸るばかり。
朝霧や半次郎の恋にもぐっときましたが、その悲恋ばかりではなく遊女たちの女同士の友情や淡い憧れだったりそこからほんのり生まれる思いだったりが細やかに描かれていて、そこにまたほろりと涙してしまうのです。そして、読み終えてなお彼女たちの昇華されない思いが胸に深く突き刺さってこの疼きから逃れられずにいます。
三浦しをんさんの
書評はさすが。これを読んでまたぎゅっと胸つかまれてしまいます。
⇒ ちづ (04/28)
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