ひなたでゆるり

読書のコトとちょっぴり日々のコトブログ

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『月光スイッチ』橋本紡

月光スイッチ
月光スイッチ
橋本紡/角川書店
例えば月の明かりを灯すように、世界を少しだけ変えるスイッチがある
セイちゃんの奥さんが子供を産むために実家に帰っている一ヶ月半、新婚生活(仮)が始まる。待ち望んでいた、二人だけの穏やかな日々、なのに。例えば月を灯すような、何かを変えるスイッチを探す、一夏の物語。
自分の愚かさなんて自分が一番良く分かっている。セイちゃんに奥さんがいること、その奥さんのお腹にはセイちゃんとの赤ちゃんが宿っていること、全部全部ちゃんとわかっている。私とセイちゃんの関係が世間では決して認められないことだって、ちゃんと。
…でも。どうしようもない時がある。セイちゃんが好きという気持ち。抱きしめられている時の幸福感。全部全部私にとっての命そのもの。これがなくなってしまったら…。
そんな刹那の中で生きる主人公香織の一途なまでのセイちゃんへの思いがひしひしと伝わる。けれどもこの愛は実を結ぶことがない。だって、セイちゃんは奥さんもちゃんと愛しているんだもの。赤ちゃんだって奥さんのお腹の中ですくすく育っているんだもの。
…でも。そうなのだ、でも。分かっているんだけど、抗えない気持ちの大きさはもうどうしようもない。
そんなともするとドロ沼の話しが橋本さんの優しい穏やかな文章で綴られていく。この陽だまりの中にいるような温かみはなんだろう。題材が変わっても橋本さんという人の文章は読み手をくるんと包んでほこほことさせてくれるのだ。

この二人の関係、二人が仮の新婚生活を送る「山崎第七ビル」の住人たち、ひょんなことから出会って知り合う姉弟、二人を取り巻く人物達のストーリーが実は香織とセイちゃんよりも秀逸で素敵である。と、書いてしまうのはどうかと思うけれど、これは本音。中でも母子家庭の吉田さんハナちゃん母娘の話には個人的にある思いが伴ってぐずぐずと涙してしまった。ハハハ、こういう何気ない描写に自分の思いだったり、人生だったりを重ねてしまうのは年とった証拠だよなぁ。でも、仕方がない。こういうものはふいにやってきて知らずにグッときて、はらはら涙流しちゃうんだから。気がついたら、ってやつである。しかも橋本さんの文章がこれまた優しくて切なくて、もうダメ。まるで普段優しくされていないような言い方だが、そうそう人って優しさの中で包まって生きてはいないでしょう。時たまそんな優しさに触れるとやっぱりこうあったかくなってしまうんだなぁ。
…とこの作品の話しに関係のないところでしみじみしている私なのであった。

セイちゃんへの思いを香織はどうしていくのかな。何となくだが香織は折り合いをつけられずにいってしまうんだろうな、彼女の性格を考えてふと思う。
それもまた彼女の人生。何が正しくて、何が悪いのか、などと誰がどう決められるものか。所詮は自分が決めること。そこで不幸になろうが、キッパリ新しく踏み出すか誰が決めるではない。自分のことなんだから。
そしてどんな状況でいたってマイナスになることはない。ほんの数ミリだって成長しているはずなのだから。
香織の見つめる景色だったり、風景だったりが次第に明るく輝いて見えるようになるのは決して錯覚ではあるまい。彼女の中で揺れるものが少しずつだけど定まっていくようで、心配ながらもきっと大丈夫かも、とも思えるのである。

「月光スイッチ」というタイトルの言葉。「世界を少しだけ変えるスイッチ」。目立たないけれど確実に変えてくれるスイッチが、誰の手にもある。

読了日:2007年5月22日

料理上手な橋本さんの描く料理は今回も作りたくなってしまうようなものばかり。特に「どら焼き」。どら焼きなんて買うばかりで作ったことはないけど、このレシピだったら自分にも作れそう!と思わせてくれるのだから不思議。このどら焼きは甘さ控えめの豆本来の味が感じられるあんこが詰まった、まるでこの作品のようでもあります。甘いようで妙にリアルさが感じられるこの作品に。それでも橋本さんの目差しはやわらかく温かい。どこまでも包んでくれるような安堵感があるのです。
かりさ | 著者別は行(橋本紡) | comments(14) | trackbacks(6) | 

『ひかりをすくう』橋本紡

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ひかりをすくう
橋本紡/光文社
突然こころが壊れてしまった。そんな私を、哲ちゃんは静かにそっと抱きしめてくれた。私にとって、ありふれた日常が最良の薬になった…。この世界に降るもうひとつのひかり。ひとの可能性を描く切実な物語。

ゆるりととろりと流れる時間の流れに身を任せること。それは意外に難しい。時々は心の体の叫びを耳をすまして聞いてやることが必要なのに、それさえも惜しむかのように自らを追い込んでしまいがちである。ゆるりと過ごすことに罪悪感を感じてしまう。
このどこまでもやさしくあたたかい物語はまるでひなたの中にいるかのように凝り固まったものを解きほぐす。人の生き方を再認識させてくれる。

父やその環境に反発して故郷を飛び出し、東京で頑張っていた智子。仕事も認められつつあり、充実していたはずだった。けれどもある日体が悲鳴を上げた。同時に心のバランスも崩した。でも頑張った。でもダメだった。仕事を辞めた。生活を共にしていた大好きな哲ちゃんと思い切って都会を離れ、田舎へ越してきた。そこでゆるやかに流れる日々に身を任せ哲ちゃんの愛に包まれ少しずつ再生していく智子。仕事をしない二人は生活費を切り詰めるため倹しい生活をする。ささやかながらも哲ちゃんの作った美味しい料理を二人で食べ、時には二人でお弁当を持って散歩に出掛け、ゴロンとしながら音楽を聴いてみる。生活の不安を感じながらも今どうするべきかを最優先に考える。
どうだろう?もし夫が心の病気になり働けなくなったら…。私が働きに出て大黒柱にならねばならない。人間の心は脆いもの。いつポキンと折れてしまうかもしれないのだ。その蓄積されたものが大きければ大きいほど余波は思わぬ被害を及ぼす。その時私は果たして支えてやれるのだろうか。そんな事態が起きることも実は日々考えながら過ごしているのだ。決して物語の中だけのことではない。この優しく温かな物語はそんな不安や恐怖も連れてくる。
「仕事を辞めようかな」と相手が言ったら果たして哲ちゃんのように「いいんじゃないの」と言えるだろうか。彼のように度量のある答えがするりと出せるだろうか。難しい。理想ではあるが難しい。けれども「何言っているの。頑張ってよ」とは言えないではないか。折れそうになっている人間に頑張れだなんて、その部分を接着剤で繋ぎ止めればいいなんていう問題ではないのだ。それはきっと不登校の女の子にも言える。我が子が学校へ行きたくない、と深刻な顔で打ち明けられたら(ただの怠けで言うのとは顔も雰囲気も違うはず)「頑張れ、頑張れ」と急かすようにその背中を押して無理やりにでも登校させるだろうか。やはり難しいのである。大人の社会も子供の社会も過酷である。そこでどう踏ん張るか、自分を鼓舞しながら頑張ってしまうことは時に悪い方向へと向かわせることになりかねない。でも社会は挫折者を許さない。

人の生き方は通り一遍でないはず。その人それぞれ違うものであるだろうし、頑張りどころも立ち止まり休憩する拠点も違うはず。自分の今を、パートナーの今を、子の今を、もう一度見つめ直して充電する時期ではないか点検する必要があるのかもしれない。そう思わせてくれる物語。秋晴れの空に浮かぶ雲を眺める時間。その雲が青い空に流れて溶けるまでゆるりと過ごしてみる。何でもない一日でもこんなに情緒的になれる。そうしてまた一歩を力強く踏み出してみせる。

読了日:2006年10月7日


とてもやわらかく素敵な作品でした。この作品は橋本さんの半自伝的小説。主人公智子に自身を投影し書かれたそうです。都会を離れ田舎へ越した、その現在住む町がこの小説の舞台にもなっています。ゆっくりゆっくりとですが智子が再生していくさまは、くしゃっとなったちり紙にスポイトで一滴ずつ水を垂らし、少しずつ少しずつその水を吸って形を戻すかのような、そんな感じでした。一度折り目のついたものは完全に元に戻らないし、またいつ折り目が戻ってしまうかわからないけれども、智子にはこれからいろんな可能性があって見守ってくれる人々がいて、たぶん大丈夫なんて根拠はないけど希望を得る読後感でした。当たり前に過ごす日々も毎日何かしら変化はある。そうやって日々を紡いで確かなものにしていく。静かなる文章の中でもハッとさせられるものがありました。
私は夫の転勤で生まれ育った東京を離れ田舎へ越してきましたが、ここへ来て最初の感想は「空が広い!」でした。四角く切り取られた空ばかり見ていたせいでしょうか、どこまでも続く空を見て「ああ、この空があればきっと寂しくない。やっていけるかも」と妙な確信を持って田舎暮らしをスタートさせました。都会暮らしが慣れている者には田舎はあまりにも寂しい場所で時々雑踏の賑やかさが恋しくなります。けれども自然が常にそばにある環境というのは人間を大らかにさせてくれるものです。元々大らかだった私はさらにさらに大らかになりもうどんなことでも受け止められるくらいの強さを得たように思うのです。
ここへ来て空を見上げることが多くなりました。空の色、雲の形、それらは毎日違って見えます。それと同じように私たちの変わり映えのしない生活も日々変化しているのでしょう。そう思ったら毎日丁寧に暮らそうと思い直すようになりました。そうしたら掃除だって料理だって、夫や子供を見送りまた迎えることだってかけがえのないものになります。きっとまたしばらくしたら「ああ〜何もかも面倒だー!」と投げやりになってしまうかもしれませんが、そんなときはまた智子や哲ちゃんを思い返してみようとそう思うのです。
それにしても橋本さんは子猫を描くのがとっても上手い!ここに登場するマメがとっても愛おしくて…もう抱っこしたい衝動に何度も駆られました(笑)
かりさ | 著者別は行(橋本紡) | comments(10) | trackbacks(6) | 

『流れ星が消えないうちに』橋本紡

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流れ星が消えないうちに
橋本紡/新潮社
高校時代から付き合っていた恋人・加地君が自分の知らない女の子と旅先の事故で死んでから、1年半。奈緒子は、加地の親友だった巧と新しい恋をし、ようやく「日常」を取り戻しつつあった。ただひとつ、玄関でしか眠れなくなってしまったことを除いては――。
深い悲しみの後に訪れる静かな愛と赦しの物語。

劇的な何かが訪れるわけでない。淡々と綴られる残されたその後の二人の生活。亡くした恋人を、かけがえのない友人を、同じ傷を受けその痛みを分かち合うわけでなくただ自然に二人は寄り添う。もうあの人はいないのに、二度と帰ってこないのに、この手で触れる事さえ叶わないのに。その亡骸にすがって泣くことも出来なかっただろう。いつだって残された者はその縛りから逃れる事が出来ない。
恋人の死は心を壊しただろう。自覚はなくとも。けれどもただの死だったらまだ良かった。彼との思い出もやがては美しく変わっていくはずだった。いつかは時間が自分の壊れた心をまた再生し、シャンと背筋伸ばして一歩を踏み出せるはずだった。でも違った。恋人は誰か知らない女の子と一緒に死んだ。それが私をどす黒い闇に放り込む。ブラックホールのような深い深い闇。二度と戻ってこれないくらいの強烈な闇。

人の死を思う時、その異様な冷たさがまざまざとよみがえる。指先がしっかりその温度を覚えている。それはどんなに年月をかけようとも決して忘れる事のない温度である。ついこの間笑い合ったのに、その体には確実に血が流れ温かだったはずなのに、死というものは残酷だ。二度と開かないまぶたをじっと見つめ、その頬に触れた時、一瞬その手を離した。想像だにしないその温度。ああ、この人死んじゃったんだ…そう思ったら立ち上がれなくなった。悲しいとかの感情はその時襲うものではない。だた呆然とするだけだ。やがて自分の心と向き合った時その現実が押し寄せてくるのだ。
これは身内の死だったため、私は最後のお別れも骨を拾うことも出来たけれど、奈緒子はどうだったんだろう。加地君と最後の別れは出来たのだろうか。その死に顔をちゃんと見ることは出来たのだろうか。そんなことが頭をかすめた。

あまりにも淡々と描かれる奈緒子と巧くんの生活。彼女と彼の加地君への思いが溢れた語りが交互に繰り返される。溢れる…いやその亡き人に縛られて身動きが取れていないのだ。その人の死から1年半。これは長いのだろうか、短いのだろうか。痛みを癒すのに充分な時間なのか。恋人を亡くした事がない私には想像するしかないことである。

玄関で眠る奈緒子。眠りを妨げる心を支配し続ける闇。その闇を玄関という空間が取り払ってくれたのだろう。すっぽりと身を包んでくれるあの空間が奈緒子には心地良い場所だったんだろう。もしかしたらこの胸の奥深い深いところであの人の帰りを待っていたのかもしれない。彼との思い出があまりに溢れて流れくる自分の部屋だって辛い。その原因の他にもっと違う別の何かがきっと玄関と言う場所を選んだのかもしれない。うっすらと夜明けの光が差し込むまで眠れなかったり、まどろんだり、その光を受けてから眠りについたこともあっただろう。人間は自覚しないところで再生の時をきっと待っている。日々の繰り返しの中で人は悲しみや辛さを抱えながらも生きていく力を温存し、その時をじっと待つのだろう。

満天の星、無数の流れ星。その流れ星に何を願っただろう。遠い遠い届かない場所にいる彼を想い、今大切な彼を想う。決して断ち切れないその手と手はずっとずっと繋がれていくだろうか。そうであって欲しい。本を閉じ、窓から星空を眺める。目には見えないけれど幻の流れ星に二人のこれからをそっと願った。

読了日:2006年9月3日


実は橋本紡さんをずっと女性だと思っていました。繊細な描写、優しい眼差しがそう勝手に思わせたのかもしれません。先日ダ・ヴィンチに載っている橋本さんを見ました。…男性でした。驚いた。そして今まで読んだ橋本さんの作品を思い返してみました。そうしたら不思議な事にその作品がさらにさらに優しいものに感じられました。それは男性が描く意外性からなるのかもしれません。上手く言えないのですけど。
さて、橋本作品はこれが3作目。ちょっと毛布おばけを思い起こすような玄関で眠る女の子。その恋人を亡くした辛さを延々と描くのではなく、悲しみの中でも変わらずに朝は訪れるし、お腹はすくし、生活だってしていかなくてはならない。そんな日々を描いていく。とても素晴らしかった。お涙頂戴で書かれていないことに好感を持ちました。
特に感想には書かなかった、奈緒子と父とのやり取りがとてもいい。奈緒子の漫画と父の時代小説を貸し合い、同じ空間でそれぞれの本をそれぞれ読みふける。その場面がとても好きで何だかいいなぁと思ってしまった。加地君の本好きな場面とか公園の葉っぱを栞にしちゃうとことか、とてもとても好き。そんなハッとさせられる何気ないシーンが響くのです。とても素敵な作品でした。
かりさ | 著者別は行(橋本紡) | comments(14) | trackbacks(8) | 

『猫泥棒と木曜日のキッチン』橋本紡

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猫泥棒と木曜日のキッチン
橋本紡/メディアワークス
お母さんが家出した。あっさりとわたしたちを捨てた―。残されたわたしは、だからといって少しも困ったりはしなかった。サッカーを奪われた健一くん、将来女たらしになるであろう美少年の弟コウちゃん。…ちょっとおかしいかもしれないが、それがわたしの新しい家族。壊れてしまったからこそ作り直した、大切なものなのだ。ちょうどそのころ、道路の脇であるものを見つけて―。

本書「猫泥棒と木曜日のキッチン」は「毛布おばけと金曜日の階段」に続く七曜日シリーズの2作目。シリーズということで登場人物の繋がりがあるのかと思っていたが、これはまた別の物語だった。"親が子を捨てる物語。そしてまた子が親を捨てる物語"である。今回は母親が家出することから始まる。17歳のみずきと父親違いの5歳の弟コウちゃんとの2人の生活が始まる。5歳の子供を置いて家出する母。こんなんあり得る?これからこの子達はどうなっちゃうの?だがこんな境遇でも前作同様、不幸さを漂わせていない。もちろんコウちゃんは母親がいなくなった寂しさを感じているし、みずきだって多少なりと寂しさと心許なさを感じている。が、著者はそこに重点を置かずさらりと描いてみせる。

母がいなくなった日を境に始まった猫の弔い。やたらと目にするようになった子猫の轢死体を持ち帰り家の庭に埋める。細長い棒の墓標。来る日もまた轢死体の無惨な子猫を見つける。持ち帰る、埋める。墓標が増えていく。やがてある事件が訪れる。そこには壮絶な出来事が待ち受けていた。これを機にみずきはあることを決行する。
そして子猫の葬式を手伝い、いつもみずきの力になっている健一。彼もまた癒えない傷を抱えて生きている。そんな健一の視点で書かれた「少年の憂鬱」がとても良い。それまでの力強さを感じるみずきの視点から一変、ほんわかした頼りなげな健一の思いがほのぼのとしてホッとさせてくれる。
気が付けばそれだけ辛辣なものが本書には込められているのだ。それを直球で投げず、やんわりと包み込んで差し出す。優しさの中に作者の思いがこれでもかと溢れんばかりに込められているのだ。

本書を読んで強く思うことは子供は決して弱い生き物ではないと言うこと。大人が親が思うよりずっと物事をしっかり見据え、観察力も優れている。私もかつて子供だった頃があったはずで、今よりももっと前向きにひたむきに生きていたように思う。あの頃の自分をいつの間にどこに置き忘れてしまったのだろう。あの頃は今よりももっといろいろ物事をじっくり考え、未来を明るく思い描いていた。いつの間に定められた未来に混沌とした不安を抱くようになったのだろう。読みながらそんなことを考えてみたりしていた。…だが、やはり子供は一人の力で生き抜くことは出来ない。そんな弱さを子猫とかけて描いてみせる。見事である。

「毛布おばけと金曜日の階段」と比べて本書は作者がさらに確固たるものを持って書かれている。ライトノベルからハードカバーに変わった分、明らかに重きと言うか質が変わったようにも感じた。生きるということ、命というものをまざまざと見せられ、そしてしみじみ感じさせてくれる物語である。

読了日:2006年3月31日

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『毛布おばけと金曜日の階段』感想(2006/3/31)
かりさ | 著者別は行(橋本紡) | comments(8) | trackbacks(3) | 

『毛布おばけと金曜日の階段』橋本紡

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毛布おばけと金曜日の階段
橋本紡/電撃文庫
お姉ちゃんは毎週金曜日、階段の踊り場で“毛布おばけ”になる―。あたしとお姉ちゃんと、お姉ちゃんの彼氏の和人と、3人で過ごすこの金曜日は、あたしが“家族”という言葉を実感できる瞬間であった。父と母を失い、姉妹だけになってしまってから、家族という言葉は意味をなくした。でも、金曜日の階段は、あたしにとって至福の場所なのである―。高校生・未明の周りに起こる様々な出来事を綴ったハートウォーミング・ストーリー。『みちのながてをくりたたね』『花火の下、きみの微笑みを』『缶コーヒーの行方』の三篇を収録。

「毛布おばけと金曜日の階段」の不思議なタイトルは結構以前から気になっていた。毛布おばけ?金曜日の階段?なんだろ、一体。意味は読み始めればすぐにわかる。ああ、そういうことか。父が交通事故で死に、母はそのショックで精神をやられてしまった。いや、そうしているフリなのかもしれない。何にしても弱い人だった。未明(みはる)と姉の二人だけの生活が始まったが…その姉も父の死が重く圧し掛かっていたことを知る。父の死んだ金曜日、毎週姉は毛布おばけになる。
一見すると不幸な話しである。が、ここに漂う空気は不幸の欠片など一片もない。前向きに生きる未明の明るさが救っている。

高校生である、未明と和人の視点で描かれている本書、悩み多き彼らのもどかしさが大人から見れば何とも可愛いものである。が、一方でこの思春期にありがちな悩みが実は形を変え、質を変え、いつでも付きまとうものなのだということに思い当たる。その数が増えるごとに対処法と切り抜けていく力を得ていくものだが、力不足の彼らはこれっぽちの悩みにも時間をかけ、手探りで解決法を探してゆく。同年代には共感を得、大人にはそんな当時の自分を思い起こさせ、今置かれている自分の状況と照らし合わせてみたりする。

金曜日…未明、姉、その姉の恋人3人恒例の階段踊り場での食事会。客観的に見てどこかおかしい彼らの日常も、しかし彼らにとっては大事な場所であり、家族を実感出来るひと時でもある。これがずっと続いて欲しいと願ってしまう未明。姉の毛布おばけがいつかいなくなってしまう恐怖が隣り合わせにある。が、しかしこのままでいられないこともちゃんと頭の片隅ではわかっている。
人は大人も子どもも物事に慣れるとそこに位置することが楽になり、なかなか抜け出すことが容易でなくなる。築き上げてきたものを壊すことはそう簡単に出来ないものである。それをあえて崩すこと、新たなものを築く一歩を踏み出すこと、本書はそんな勇気を持つことを教えてくれる作品である。

読了日:2006年3月30日
かりさ | 著者別は行(橋本紡) | comments(2) | trackbacks(3) |