ひかりをすくう 橋本紡/光文社
突然こころが壊れてしまった。そんな私を、哲ちゃんは静かにそっと抱きしめてくれた。私にとって、ありふれた日常が最良の薬になった…。この世界に降るもうひとつのひかり。ひとの可能性を描く切実な物語。
ゆるりととろりと流れる時間の流れに身を任せること。それは意外に難しい。時々は心の体の叫びを耳をすまして聞いてやることが必要なのに、それさえも惜しむかのように自らを追い込んでしまいがちである。ゆるりと過ごすことに罪悪感を感じてしまう。
このどこまでもやさしくあたたかい物語はまるでひなたの中にいるかのように凝り固まったものを解きほぐす。人の生き方を再認識させてくれる。
父やその環境に反発して故郷を飛び出し、東京で頑張っていた智子。仕事も認められつつあり、充実していたはずだった。けれどもある日体が悲鳴を上げた。同時に心のバランスも崩した。でも頑張った。でもダメだった。仕事を辞めた。生活を共にしていた大好きな哲ちゃんと思い切って都会を離れ、田舎へ越してきた。そこでゆるやかに流れる日々に身を任せ哲ちゃんの愛に包まれ少しずつ再生していく智子。仕事をしない二人は生活費を切り詰めるため倹しい生活をする。ささやかながらも哲ちゃんの作った美味しい料理を二人で食べ、時には二人でお弁当を持って散歩に出掛け、ゴロンとしながら音楽を聴いてみる。生活の不安を感じながらも今どうするべきかを最優先に考える。
どうだろう?もし夫が心の病気になり働けなくなったら…。私が働きに出て大黒柱にならねばならない。人間の心は脆いもの。いつポキンと折れてしまうかもしれないのだ。その蓄積されたものが大きければ大きいほど余波は思わぬ被害を及ぼす。その時私は果たして支えてやれるのだろうか。そんな事態が起きることも実は日々考えながら過ごしているのだ。決して物語の中だけのことではない。この優しく温かな物語はそんな不安や恐怖も連れてくる。
「仕事を辞めようかな」と相手が言ったら果たして哲ちゃんのように「いいんじゃないの」と言えるだろうか。彼のように度量のある答えがするりと出せるだろうか。難しい。理想ではあるが難しい。けれども「何言っているの。頑張ってよ」とは言えないではないか。折れそうになっている人間に頑張れだなんて、その部分を接着剤で繋ぎ止めればいいなんていう問題ではないのだ。それはきっと不登校の女の子にも言える。我が子が学校へ行きたくない、と深刻な顔で打ち明けられたら(ただの怠けで言うのとは顔も雰囲気も違うはず)「頑張れ、頑張れ」と急かすようにその背中を押して無理やりにでも登校させるだろうか。やはり難しいのである。大人の社会も子供の社会も過酷である。そこでどう踏ん張るか、自分を鼓舞しながら頑張ってしまうことは時に悪い方向へと向かわせることになりかねない。でも社会は挫折者を許さない。
人の生き方は通り一遍でないはず。その人それぞれ違うものであるだろうし、頑張りどころも立ち止まり休憩する拠点も違うはず。自分の今を、パートナーの今を、子の今を、もう一度見つめ直して充電する時期ではないか点検する必要があるのかもしれない。そう思わせてくれる物語。秋晴れの空に浮かぶ雲を眺める時間。その雲が青い空に流れて溶けるまでゆるりと過ごしてみる。何でもない一日でもこんなに情緒的になれる。そうしてまた一歩を力強く踏み出してみせる。
読了日:2006年10月7日
とてもやわらかく素敵な作品でした。この作品は橋本さんの半自伝的小説。主人公智子に自身を投影し書かれたそうです。都会を離れ田舎へ越した、その現在住む町がこの小説の舞台にもなっています。ゆっくりゆっくりとですが智子が再生していくさまは、くしゃっとなったちり紙にスポイトで一滴ずつ水を垂らし、少しずつ少しずつその水を吸って形を戻すかのような、そんな感じでした。一度折り目のついたものは完全に元に戻らないし、またいつ折り目が戻ってしまうかわからないけれども、智子にはこれからいろんな可能性があって見守ってくれる人々がいて、たぶん大丈夫なんて根拠はないけど希望を得る読後感でした。当たり前に過ごす日々も毎日何かしら変化はある。そうやって日々を紡いで確かなものにしていく。静かなる文章の中でもハッとさせられるものがありました。
私は夫の転勤で生まれ育った東京を離れ田舎へ越してきましたが、ここへ来て最初の感想は「空が広い!」でした。四角く切り取られた空ばかり見ていたせいでしょうか、どこまでも続く空を見て「ああ、この空があればきっと寂しくない。やっていけるかも」と妙な確信を持って田舎暮らしをスタートさせました。都会暮らしが慣れている者には田舎はあまりにも寂しい場所で時々雑踏の賑やかさが恋しくなります。けれども自然が常にそばにある環境というのは人間を大らかにさせてくれるものです。元々大らかだった私はさらにさらに大らかになりもうどんなことでも受け止められるくらいの強さを得たように思うのです。
ここへ来て空を見上げることが多くなりました。空の色、雲の形、それらは毎日違って見えます。それと同じように私たちの変わり映えのしない生活も日々変化しているのでしょう。そう思ったら毎日丁寧に暮らそうと思い直すようになりました。そうしたら掃除だって料理だって、夫や子供を見送りまた迎えることだってかけがえのないものになります。きっとまたしばらくしたら「ああ〜何もかも面倒だー!」と投げやりになってしまうかもしれませんが、そんなときはまた智子や哲ちゃんを思い返してみようとそう思うのです。
それにしても橋本さんは子猫を描くのがとっても上手い!ここに登場するマメがとっても愛おしくて…もう抱っこしたい衝動に何度も駆られました(笑)
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