ひなたでゆるり

読書のコトとちょっぴり日々のコトブログ

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『イルカ』よしもとばなな

イルカ (文春文庫)
イルカ
よしもとばなな/文春文庫
恋人と初めて結ばれたあと、東京を離れ、傷ついた女性たちが集う海辺の寺へ向かった小説家キミコ。外の世界から切り離された、忙しくも静かな生活。その後訪れた別荘で、キミコは自分が妊娠していることを思いがけない人物から告げられる。まだこの世にやってきていないある魂との出会いを、やさしく、繊細に描いた長編小説。

決して出産をテーマにした物語ではなかったのが良かった。
心と体のバランスの難しさだったり、外から隔離された世界で感じることだったり、出会った彼との穏やかな交流だったり、そちらのほうがより印象的でした。
オカルト的な要素があったのもなかなかこの物語に合っていて自然だったかも。
自分の中で鼓動を打つもうひとつの存在を思いながら読みました。

読了日:2008年11月26日
かりさ | 著者別や・ら・わ行(よしもとばなな) | comments(0) | trackbacks(0) | 

『ひな菊の人生』吉本ばなな

ひな菊の人生
ひな菊の人生
吉本ばなな/幻冬舎文庫
生まれついて父はいない。そして幼くして、母までも事故で亡くしたひな菊を支えたのは、親友のダリアだ。ダリアがブラジルに旅立ち十数年、二十五歳のひな菊は、ダリアとの「林の中」の鮮やかな思い出を胸に今を生きる―。哀しくも温かな人生をひな菊は語る。
生きることや死に別れることへの感情が淡々と、しかし温かく綴られたひな菊の人生。
人の死に対してそこから溢れる感情というものは、残された家族だったり、親戚だったり、友達だったり、その人との関わり方で溢れ方も違ってくるのだと思います。その人の人生をなぞって不幸だったとか、大往生だったとかその死に対して何らかの分け方をしてしまいます。それは死を迎えた年齢だったり死に方だったりでも変わってくるでしょう。
ひな菊の生い立ちはたぶん不幸に属されてしまうのかもしれません。本人はそうは思わなくても周りは勝手にそう決めつけてしまいがちです。可哀想なひな菊…。けれどもひな菊の思いに触れていくうち、ここに流れる淡々とした哀しみの彩りもいつしか温かく力強い息吹を感じていきます。それはひな菊の忘れることの出来ない友達・ダリアについて語られていくところでますます増していきます。

死というもう手の届かない遠い世界に旅立ってしまった人とどれだけ濃密に過ごしたか、その日々をどれだけ忘れずにいられるか、それだけでもその人と一緒にいたことは確かなこととして生きる者へ深く深く刻み付けます。哀しいけれどもその刻印がある限りそれを思い出しまた生きる力に糧にしていくことだって出来るのだと思います。

引越し作業が大詰めだった先月、大好きな祖母が亡くなりました。老衰でした。埼玉に住んでいた祖母、遠い三重にまだいた私はその祖母と最後のお別れは出来なかったけれど、その死の知らせを受けた直後、偶然片付けで見つけた祖母の写真をアルバムに貼り(長男の初節句に撮影したものや生まれたばかりの私を沐浴させている写真、赤ちゃんの私を愛おしげに抱っこする若き祖母の写真)、数珠と一緒に大切に常にそばに置きました。引越し当日も手荷物にそっと入れて一緒にいました。どこにいてもその人の死を悼み、手を合わせるだけでそれは供養になるのだと思います。今でも祖母との濃密な思い出を哀しくも温かなものとしてこの胸に刻み付けています。

そんな私が引越し後に最初に手に取ったのが『ひな菊の人生』だった、というのも何だか偶然というか必然だったような気がして、だからこそこの作品が愛おしくてたまらなくなりました。ばななさんがあとがきに「この小説が愛おしい。そうとう好きな作品だ。」と書かれていてそれがとても嬉しく響いて何だかちょっぴりじんわりとこみ上げてきました。

この作品を読むと焼きそばが食べたくなります。美味しい焼きそば。思い出の焼きそば。いつか私の作る料理もそんな風にして家族の舌に残されていくのだろうな。死んでしまったらもう二度とその味は味わえないけれど、それを哀しみと思わず濃密な思い出として残されていくようなそんな別れだったらいいと思う。
死に別れることは確かに哀しいけれど、早かれ遅かれいつか必ずみんなそうなるのだから。だから哀しいけれどそれを受け止められる強いものがその時に流れてくれればいいと思う。難しいことだけれども。そう思う。

読了日:2007年4月9日
かりさ | 著者別や・ら・わ行(よしもとばなな) | comments(4) | trackbacks(0) | 

『人生の旅をゆく』よしもとばなな

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人生の旅をゆく
よしもとばなな/日本放送出版協会
人生は自分のもの。人にはゆずれない、かけがえのない、びっくりするような思い出をいっぱい作ろう。旅行、出産、日常、子育て、別れ…。降り積もる記憶を胸に、いまを生きる切なさとすばらしさを綴ったエッセイ集。

年の瀬は何かと気忙しく落ち着きのない日々を過ごすことが常なのですが、今年は今までなんぞ比にならないくらい忙しない日々を送っています。沈んでは浮上し、また沈んで浮上出来ぬままぶくぶくと沈みゆく…なんてこともありました。自分の力ではどうしようもない、そんな非力な自分に嘆いていた頃このばななさんのエッセイを読み始めました。
お友達から贈っていただいたこの本、大事に大事に毎日少しずつ読みました。多忙な日々にはこうしてちょこちょこと楽しめるエッセイはとてもありがたいです。そしてばななさんの文章に癒されていく自分。コチコチと固まった心がゆるゆると温められ開放されていく感覚が広がるのを実感しながら読んでいました。

ばななさんはここで沢山の旅の話を書かれています。そして旅立つ前の自分を惜しむことも書かれています。「もう前と同じ自分では帰ってこられないのだ」としみじみ。
それは旅することで確実に変化していく自分、何かを得る自分、旅する前の自分とは確実に違う自分に成長していることを意味するのでしょう。
読書もきっと同じだと思います。読書も旅するような感覚でいつも読んでいます。それは読む前の自分と読み終えた後の自分は確実に違っているから。書物を読むというのは脳への糧です。知らなかった世界が広がりそこから何かしらを得ていきます。多少でも感情の成長を得られていくのだと思います。もちろん相性の良くない書物にそれは期待出来ないこともありますが、そこで湧き起こる感情に対する自分も含めての成長なのだと思うのです。だからやめられない。旅も読書も同じようにやめられない。それはもう理屈ではないのでしょう。

今年久しぶりにばななさんの作品に出会っていくつか読みました。その紡がれる優しい文章に温かなものが生まれ流れていくのを感じたとき、もっと読んでみたいなと思うようになっていました。そうしてこのエッセイを贈っていただき読みました。不思議かな、小説を読むのと同じように優しくやわらかく温かなもの。何故かはわからないけれどお湯に浸かっているような安堵感。その感覚がとても良くもっともっと浸っていたいと丁寧に読んでいました。
特に3章の生と死を綴ったところは涙したり大いに共感したりと最も心揺さぶられる文章の数々。赤ちゃんのこと、孫を可愛がる両親のこと、愛犬の死、お世話になった店長のこと。みんなそれぞれ精一杯生きている。生はみな平等であり寿命も平等であるはずなのだけれども、天に召される順番は誰にも決められない。死が確実に近づいてくるのを悟ったように語るところなど胸が衝かれてしばし考え込んでしまいました。私にもやがて訪れる死。その形がどんなものであれ死の足音をどのように自分が受け止めるのか今はまだわからないけれども冷静にそれを見つめることが出来るのか、と言ったらたぶん出来ないのではないかと思うのです。必死に抗って認めたくないと喚き散らしてしまうのではないかと思うのです。だからこそ静かにその時を覚悟する様子がもう神に半分召されているのだろうな、と何だかしみじみしんみりとした気持ちになっていました。
ばななさんの愛犬ラブ子もそう。死を悟るってどんなだろう。読み終えてずっとずっと考えています。

どうせならこの世にお別れするときに悔いのないような人生を送っていきたいものです。生きるって制限だらけの中で息苦しくて辛くて時々呼吸困難になってしまうことも多々あるのですが、それ以上に楽しいことを見つけ思い出を作っていくこと、苦しくても楽しいことのために今を踏ん張る、その繰り返しで生きている。楽しいだけの毎日ではありがたみがありません。苦しいことがあって初めて楽しいことの意味を実感するのですから。でも出来るならば楽しいことのほうが沢山あったほうがいい。そのためにどうすればいいのか、日々悩みながらも模索していくのでしょうね。それは人生経験が豊富になっても豊富になるだけまた模索の日々が始まるのです。それもまた楽しいと感じられる大きな人間になっていきたいものです。

素敵なエッセイでした。
最後にこの本を贈って下さったchiekoaさんに感謝いたします!

読了日:2006年12月23日
かりさ | 著者別や・ら・わ行(よしもとばなな) | comments(4) | trackbacks(2) | 

『デッドエンドの思い出』よしもとばなな

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デッドエンドの思い出
よしもとばなな/文藝春秋
人の心の中にはどれだけの宝が眠っているのだろうか――。時が流れても忘れ得ぬ、かけがえのない一瞬を鮮やかに描いた傑作短篇集。

このとくとくと規則的に音を立てる鼓動の奥底の深い深いところがきゅぅとなる。喉の奥のほうが締め付けられて息苦しくなる。ああ、これを切ないというのだろう。いつだって切ないという気持ちは泣きたくなるような、でも泣けないような困った顔をさせる。今の私はきっとそんな顔をしているんだろう。そしてこの胸の痛みと同時に、あの頃のあの時のあの辛くてもう立っていられないくらいどうしようもなかった昔の自分を思い出す。ばななさんの作品を読むたびにその頃の自分をさらけ出してしまい、またそのチクンとした痛みを思い出す。幾分かやわらいだ痛みはそれでも完全に消えることはないことを思い知らされる。そうしてその痛みさえ肯定してもいいんだよ、とこの作品は教えてくれる。
あの時の自分があって、今の私がある。これだけ辛い思いをしたのだからこれから先どんなことがあっても切り抜けていける、何の根拠もないその思い。でも辛さや痛みは決して慣れることはない。どんなに小さな痛みも辛さもその時は最大であり、これ以上にないくらいの嘆きなのだ。人間は強いようで弱い。でも弱いようで強い。

ばななさんのあとがきにもあるように、確かに『デッドエンドの思い出』の中の物語はどれもつらく切ない恋がある。けれども私はそんな物語が嫌いではない。ものすごく自虐的な自分に苦笑してしまうが、むしろ過去の自分を引きずり出し、過去に負ったであろうその痛みを思い出し浸る。そして今の幸福な自分を思う。過去の自分があったからこそ今の自分がある。あの時がなければまた違った生活があったのだろう。それはそれでまた幸せな日々なのかもしれない。でも道はひとつしか選べない。突然現れる分岐点を進むのはどれか1本なのだ。その時々の選択が正しいのか、間違っているのか、それは未来の自分が決めることなのだろう。

「幽霊の家」「おかあさーん!」「あったかくなんかない」「ともちゃんの幸せ」「デッドエンドの思い出」…5つの物語はどれも素晴らしく愛おしい。それぞれの中に住む彼ら彼女らが精一杯生きていてそんな姿に温かなものがじわじわと広がった。どんなに不幸でもどんなに理不尽な局面を突きつけられてもそれぞれがそれぞれの形でゆっくりと乗り越えてゆく。どんなに時間はかかってもちゃんと自分の手足でそれをのけていく。

「幽霊の家」
読みながら今私を一番に愛してくれているであろう人のことを思った。その人との営み。一緒の時間をこれからも過ごし、一緒だけれども互いに決して干渉せず絶大の信頼を持って人生を同じ歩幅で歩いていくであろう人のことを。そのひしひしと感じる確固たる愛情にくるんと包まれている安堵感と幸福感がじんわりと沁みてきていた。
自分たちが死んだことに気がつかず、幽霊になってもその営みを繰り返す老夫婦のその姿がとても愛おしかった。そしてその幾重にも重なった流れの先が自分もそうであって欲しいとの願望を込めた。とてもとても好きな作品である。

「おかあさーん!」
生死の境を彷徨った中で得られたものをひしひしと知る。自分の立ち位置に自信が持てずがむしゃらに走ってしまう。もう息が切れてこれ以上ダメで体が精神が悲鳴を上げているのに、自分の発しているSOSなのに気がつかない。
頑張りすぎて体壊して入院して、それでも休むことが不安で仕方なくてちゃんと完治していないのに復帰して…結局入院前の体に戻ることが出来ずに退職することになってしまった愚かな私。時代が許さなかったこともある。忙しいことが勲章みたいな場所でとにかくその場にいない自分を許せなかったこともある。辞めてから吹っ切れたことはこれもまたひとつの財産になったわけだが。
母との仄かな思い出、もしかしたらずっと続けていけたかもしれない幻の家庭。そんなシーンにじぃ〜んときてしまった。本当に人間明日、いや数時間後、数分後に何が起きるかわからない。それはもうどうしようもないことなのだけど、けれども考えずにいられない。

「あったかくなんかない」
もしかしたら一番切ないんではないかな。子供の頃陽の暮れた中ぽつぽつと灯るよその家の明かりを見るのが好きだった。その色は白っぽかったり、乳白色していたり、黄色ぽかったり同系色のモザイクを見るようで楽しかった。あの明かりの中でどんな暮らしがあるんだろう。勝手に想像してみたりもした。
明かりの暖かさをまことくんが考えながら言った言葉。それは何よりも重い。

「ともちゃんの幸せ」
ものすごく残酷。理不尽な仕打ちを受け続けながらも健気に生きるともちゃん。この書き手がまたロマンなのだが、ずっとずっとどこかで見守ってくれている存在。きっとそれを肌でちゃんと感じているんだろう、ともちゃんは。ベルベットのようなその心地良い感じ。実体はなくともそんな温かなものに包まれている感じ。ともちゃんはきっと大丈夫。苦しみ悲しんだ分だけ幸せが訪れる。きっときっと…そう願わずにはいられない。

「デッドエンドの思い出」
これはもう何というか切ないというか痛い。結婚という現実がちゃんと目の前にあって、ふたりできちんきちんと日々を重ねて確固たるものを得ていたはずだったのに、人の心というものはふわんとどっかへ飛んでいってしまうのだ。確かな約束だってそれはいつでも破られてしまう。心が離れてしまったというだけで。もっともっと傷ついたはずで、でもその生々しさは描かず少しずつ立ち直っていくさまを描く。そしてほのかな安らぎ。その安らぎをずっと握っていられるほど現実は上手くいかないけれども。でもこれがあったから帰るべき場所へ帰ることが出来るのだ。
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読んでいる間中過去の自分を呼び寄せて一緒に読んだような感覚。どんな時だって精一杯生きた自分が愛おしい。切なくて哀しみがいっぱい詰まった作品だけれどもそこにはちゃんと幸せもある。ささやかだけれども、ある。

読了日:2006年9月10日
かりさ | 著者別や・ら・わ行(よしもとばなな) | comments(6) | trackbacks(3) | 

『アルゼンチンババア』よしもとばなな

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アルゼンチンババア
よしもとばなな/幻冬舎文庫
街はずれの廃屋みたいなビルに住む、変わり者で有名なアルゼンチンババア。母を亡くしてからしばらくして、みつこは自分の父親がアルゼンチンババアとつきあっているという噂を耳にする。思い切ってアルゼンチンビルを訪ねたみつこが目にした、風変わりで愛しい光景。哀しみを乗り越えていっそう輝く命と、真の幸福の姿を描く。

アルゼンチンババア…そのインパクトあるタイトルと奈良さんの可愛らしいイラスト。平積みにされたその本をじっと見つめた。手に取りその薄さと軽さに少し驚きながら、そういえば…と数日前のテレビ番組を思い出していた。
鈴木京香さんがおばあさんの役をされるとかで特殊メイクを披露していた。ものすごく濃いメイクと何やら怪しげな衣装に目を見張った。映画でアルゼンチンババア役をするのだとそういえばそんなことを言っていた。ああそうかこれ、原作本なんだ。ババア役なのにその美しさは損なわれずむしろそれが際立っていた。そんな京香さんの顔を思い浮かべながらなお表紙を眺めていた(その間ずっと表紙をなでつつ立ち尽くしているのだから、怪しすぎる客である…)。
作者がよしもとばななさん。あれ?吉本ばななさんでなかったっけ?改名されたのか?とそれすらも知らなかったくらいばなな作品から遠ざかっていた。長く、長く。
彼女のたゆたうような不思議な文章、折り目正しい凛とした潔さ。そんな文体が好きだった。出る作品、出る作品全て買って読んだ。それらは今も本棚の奥底で眠っている。遠ざかっていながらも当時は私を支えた本たちである。何故だかはわからないがある時からプツリと途絶えた。それはきっと私が子を産んだからであろう。当時21歳。若かった。時間をやりくりするのも手抜きも上手くなった今では2歳児を育てながら読書もガンガン出来るが、当時はそれどころではない。毎日時間をやりくりすることが最大の課題だった。そこに読書の時間は皆無であった。ああ、そうだ、そんな頃だった。

久しぶりに流れ込むばななさんの文章はただひたすらに温かかった。母のような大らかさがここにはある。ああ、ばななさんの文章ってこんなだったっけ?こんなにくるんと心地良く包んでくれるものだったっけ?当時を思い起こしながら浸った。するんするんと滑るように流れ込むものを何の抗いもなく受け入れた。

「アルゼンチンビル」に住むアルゼンチンババア。彼女は有名人である。ものすごい厚化粧と派手な服装をし、アルゼンチンタンゴとスペイン語を教えていた。だからアルゼンチンババア。魔女みたいなわし鼻にボロボロの衣装をまとったアルゼンチンババア。見るからに怪しい。社会と隔離されたような浮世だった世界に生きるアルゼンチンババアと父親が付き合っていたら?はて、自分だったらどうだろうか…。心配してアルゼンチンババアと父を訪ねたみつこ。そのみつこの性格がとても良い。なんと気持ち良いのだろう。アルゼンチンババアにはユリさんという名前があって、彼女の生活を目の当たりにして、父の幸福そうな姿を見て。始めは抵抗気味だったみつこもゆるゆるとそのユリさんの魅力に惹かれていくのだ。この3人の気持ち良いくらいの潔さ。私には決して持ち合わせていないもの。

亡くなった妻を思いながらもその残された寂しさはどうしようもなかったのだろう。それを支えたユリさん。亡き妻もきちんと心に残しながら今はユリさんをちゃんと愛する。ユリさんもそんな恋人を温かく迎え入れる。そしてやはり同じく母を失ったみつこも寂しさをユリさんに癒してもらったのだろう。
大切な人の死。深い底沼の悲しみをすくってくれた幸福な新しい日々。泣きたくなるくらいのじんわりほかほかの温かさ。
最後のユリさんの言葉を読んでほろりと涙がこぼれた。自分のための遺跡…そうか、私も自分でしっかり作っていかねば。そう強く思った。

読了日:2006年8月25日

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8/18:購入本(2006/8/18)
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『ハゴロモ』よしもとばなな

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ハゴロモ
よしもとばなな/新潮文庫
失恋の痛みと、都会の疲れをいやすべく、ふるさとに舞い戻ったほたる。大きな川の流れるその町で、これまでに失ったもの、忘れていた大切な何かを、彼女は取り戻せるだろうか…。赤いダウンジャケットの青年との出会い。冷えた手をあたためた小さな手袋。人と人との不思議な縁にみちびかれ、次第によみがえる記憶―。ほっこりと、ふわりと言葉にくるまれる魔法のような物語。

思いのほか自分の心が深く深く沈み込んでしまい、それをすくい取る術もなくただ途方に暮れてしまうこと。今ある幸せと感じる時間が永遠に続かないことは本能的に理解している。頭の奥底でそれは常に信号を発している。だがそれに気がつかない、あるいは気がつかないふりをする。その信号に気がついた時、危機は訪れているのかもしれない。足元をすくわれてもう立ち上がれないくらい、一歩を踏み出せないくらい弱りきってしまった自分を再生させるにはどうすれば良いのだろう…。その答えを探るもどかしさは泥沼にはまりこんでずぶずぶとただ沈むのを感じるだけであり、這い上がる気力さえなく。そんな辛い体験を人は少なからず持っているものだろう。

ほたるも長く続いた愛人関係が終わりを告げどれほどか痛めつけられたことだろうか。淡々と描かれているがその痛みの深さ、無気力感は体験したものにはひしひしと感じる。同じく作者も深い痛手を負っていたのだ。ばななさん独特の抽象的な文章が逆にそれを際立たせる。自分の負った痛みと照らし合わせそうしてまたその疼きに身を寄せてしまう。そんなことしてもどうしようもないのに、でも抗えない。昔の痛みを掘り起こして自分の不幸をかざしてみる。痛みを負っただけその感じる痛みにも鈍感になっていく自分。そして相手にも鈍感になってしまう自分。知らずに傷ついて傷つけてその負った傷の深さに呆然とするのだ、結局は。

傷がやがてそれを被い乾いて治癒していくようには心の傷は著しく回復しないけれどもいつかは…と希望を持たせてくれる作品である。バンソウコウになってくれる作品である。弱った自分を上手く表現出来ず、見せられず、他人に頼ることも出来ずにいる人にはもしかしたらふうわりと包み込んでくれる力強さと温かさを感じるかもしれない。作品の端々に優しさと温かさがゆきわたりいつの間にかポカポカ温められていることに気づく。そんなさり気なさが心地良い。一枚纏うことでこんなにも氷結されたものが溶け出すものなのだ。

実はこれを読む少し前、私に向けて何気なく発せられた言葉の強さに傷ついていた。何故優しく言葉を紡げないのだろう。優しい物言いが出来ないのだろう。そんなささいなことにまいってしまった自分の弱さに、情けなくも沈み込んだものを浮上させられず悶々と過ごす羽目になった。脱出方法はこの年になればいくらでも知っている。明るく自分を律することも出来る。だが、そんな気力がなければそれは叶わない。沈んだものを抱えながら日常を過ごすことの困難なこと。これは自然に浮上出来るまで時に任せるしかないのかな、と漠然と思っていた。この『ハゴロモ』で救われた、だなんて大層なことを書くつもりはない。が、少なくとも浮上出来たことは確かである。それはほたるに共感したから、というよりはほたるの姉妹になりそこなった友人・るみちゃんの言葉によるものが大きい。誰よりも孤独の中で生きてきた少女の紡がれる言葉はどこまでも優しい。人の痛みを知っているからこその優しさである。露骨に癒しの言葉を発しているわけではないのにこんなにもするすると流れ込んでくるのは何故だろうか。納得する、という行為そのものを感じる前にどんどん流れ込んで行く。それはどこまでも心地良く、力の抜ける感じ。がんじがらめに縛られたものをするすると解いてくれるような感じ。

特にるみちゃんが話す鳩の雛の話しが好き。ここでるみちゃんはこう締めくくる。
「でも私だって、実のところ、もしもみんなが等しく鳩を愛するだけの世界だとしたら、私はそこに住んで幸せだろうか?っていつでも考えてしまうもの。別の考えに触れたときの感じは、やっぱりいつでも衝撃的で、自分の世界が広がっていく気がするから。」
ストン、と気持ち良くこの言葉が胸に落っこちた。自分と違う意見や考えは自分を否定されるようで、子供の頃は聞く耳を持たない子だったのだが、社会に出て否が応でも自分と違う意見や考えに触れるにつれてその新たな広がり、自分の視野がパッと広がるのを感じるようになった。そうなったら他人の考えは面白いものである。右へ倣えではない考え方。それはいつだって新鮮であり、自分を成長させる。
その鳩の雛を失った男の子は悲しいだろうけれど、るみちゃんのきちんとした誠実なそれに対する説明はきっと男の子を成長させるだろう。そうしたら何だかまたふうわりと包まれる感じがした。

衝撃的な出会いをするみつるくんにもその優しさが端々に描かれる。ほたるとみつるくんの逸話は如何せんファンタジーじみているが(他にもバスターミナルの神様のこととか、みつるくんのお母さんのこととか)それを含めての『ハゴロモ』なのだなぁと自然に納得させられてしまうあたり、ばななさんの文章にすっかり寄り添ってしまったためであろう。

自分を必要としてくれること。無条件に自分を愛してくれる存在。いつでもずっとそれが側にあり続けることは難しいだろうし、それを望むのも図々しいことかもしれないが、そんな確かなものがあればまた生きて行ける。少々大仰過ぎるかもしれないが、ほこほこと心を温めてくれる感覚を味わうことが出来るだろう。

読了日:2006年8月27日


みつるくんの作るインスタントラーメンに思わず涎じゅるる(笑)
やっぱりインスタントラーメンはサッポロ一番よね!なーんて納得しながら読んでました。私が小さい頃インスタントラーメンといったらサッポロ一番のみそ味か醤油味。塩は何故か食べた記憶がないな。母が好きじゃなかったからだろうか。あ、父が好きじゃなかったんだ、きっとそう。でも最近のマイブームは塩味。私のインスタントラーメンはみつるくんと似ていて、乾麺をもやしとベーコンとピーマンと煮込んで、器に移してからコーンとすりゴマと粗挽き黒こしょうをたっぷりかける。すりゴマはちゃんと食べる前にすりすりするのですよ。香りが格別ですもん。いや〜これはうまいのだ。野菜たっぷりラーメン。たまにみそ味とかも美味しいですね。で、で、初めて知ったのだけどミックス!?ミックスってみそと塩を半分こするの?へぇぇぇ〜美味しいのだろうか?今度試してみましょう。
それにしてもばななさんの文章、やわらかくなったなぁと久しぶりに読んで思いました。抽象的なものは変わらずなのですが、何かこうふうわりと漂うようなそれにすっと寄り添いたいような優しさを感じるのです。それはばななさんがお母さんになったからなのでしょうか。そういえば子供が良く出てきます。この『ハゴロモ』にもですが、『アルゼンチンババア』(『ハゴロモ』の前に読んだのですが感想はこの後で)にも可愛らしい男の子が出てきますよねぇ。素敵な子育てをされているんだな、とそういうばななさんのことが垣間見れるようでますます優しい気持ちになるのでした。
お母さんになるって本当に自分を変えますよね。目にするもの、目に映るものが子を産む前とはまるで違った世界で。本当にこれは不思議なこと。こうしてまたばななさんの作品を読むようになって素敵な作品と出会いました。嬉しい、素直に嬉しい。
かりさ | 著者別や・ら・わ行(よしもとばなな) | comments(4) | trackbacks(3) |