八日目の蝉 角田光代/中央公論新社
逃げて、逃げて、逃げのびたら、私はあなたの母になれるだろうか−−理性をゆるがす愛があり、罪にもそそぐ光があった。家族という枠組みの意味を探る、著者初めての長篇サスペンス。
私には三人の子があって、その三人のへその緒を大事に大事にしていて。何かあったら真っ先に持ち出すのはそのへその緒であり、母子手帳であると思っていて。でもそれって何故なんだろうか、何の意味があるんだろうか、と今自分に問うている。
私と子がへそを通じて繋がりあっていた事実をそしてその証を何故にこんなにも大事にしているんだろうか、とさっきから私はずっと考えている。
腹を痛めた子だから?血の繋がりがあるから?でも繋がりって血縁だけのことなのか。親と子の繋がり、関係性は過ごした時間の濃密さにあるんじゃないか。
だとしたらこのへその緒の存在って何だろうか。こんなちっぽけなその辺に転がっていたらきっとゴミ同然のものの意味って何だろうか。問い続けても答えは沈黙する。
子が出来たことに幸せをかみ締めて初めて母子手帳を交付されたときの気持ち、子が初めてお腹を蹴った時の感じ、初めて心音を聞いたとき、その心音が自分の鼓動よりも早く打つことに自分の中にあっても別の生きものなのだと不思議な気持ちになったこと。三人それぞれのひとつひとつがその子との初めての出会いであり、そのこそばゆさが今でも鮮やかによみがえること。その全てが私の生きる原動力であること。
この子が私の手元からふいにいなくなってしまったら。それが生まれて間もないこれから関係を築き上げる不安とでも喜びに満ちている頃だとしたら。
希和子のしてしまったことは決して許されることじゃない。
でも、希和子の行動は許されることじゃないのにその後の薫との暮らし、二人のささやかだけど幸福な日々、この二人に血の繋がりはないけれど、でも母であり子であったこと、そこに光があったこと。どうか、どうか、この二人がこのままずっと一緒にいられますように、自然と祈っていた。
希和子の視点で描かれる章はサスペンスタッチが色濃く、この逃亡生活の果てがどんなかとハラハラしながら読むのと反して、成長した薫(恵理菜)の視点で描かれる章では薫が自身の存在する意味、生き方、受け入れがたい事実と向き合うさまがじっくりと描かれ、そんな薫を見ながら読み手もそれぞれの立場でこの作品と向き合い自己に問いかける。
「ふつう」ではなかった自分を、七日で死ねなかった「八日目の蝉」のかなしさに見る薫に、千草は見られなかったものが見えるその可能性に見る。そこに未来を見る。
どこまでも靄がかった道を歩き続けた薫にとって千草は道標となる。もう一つの「ふつう」の生き方を歩んでいたら出会うことのなかったであろう人物だ。
希和子は母にはなれなかった。でも、一時でも紛れなく薫の母であった。薫を案じ、放ったその一言は確かに母のそれであった。それは子を愛さなければ決して発することのない言葉なのだから。最も心震える場面であった。
希和子が育てた赤ん坊は、しかし希和子の生きる原動力であった。誰かの手を借りなければ生きてはいけない赤ん坊の、子供の存在は力強く漲る光を放つ。濁りのない純粋な存在のなんと尊いことか。大人もまたその愛らしい存在に引き寄せられ愛しむ。
冒頭からもうここには光が見えない、と闇の中をひたすら手探りで歩んでいたその先にはそっとやわらかな、やさしい光が差し込んでいた。その光は立ち止まったままの足元にそっと差し込んで和らげるだろう。立ち止まった足はその一歩を踏み出すだろう。
そして光は影をくっきりと認めるほど明るく眩しいだろう。
ずーんと重くのしかかる作品でした。
女ってなんだろう。人を愛するってなんだろう。結婚ってなんだろう。子を産むってなんだろう。その子を育てていくってなんだろう。次々に自問してぐるぐる考え込んでしまいました。読み終えてなおその問いは続いています。本当の家族のあり方、というものも考えていて家族って血の繋がりがどうこうじゃないんだな、てことをこの作品でしみじみ実感しました。
それだけ希和子と薫のあの日々が印象的でした。私の立場からすれば薫の本当の母親により感情を寄せるはずなのに、希和子を自然に案じ、応援してしまいました。そこにきっと母というものを見たからでしょう。赤の他人の子なのだけど必死で守り、愛しみ、育てる姿はまさに母だったのだと思います。
だから上記の感想で我が子のへその緒だったり母子手帳だったりを大事にする自分が、そこにしがみつく自分が何だか滑稽に思えてきて、じゃあ何故私はそんなものに母と子の証を求めたがるんだろうかと考えてしまっていました。でもそれって理屈ではない。確かに1本の糸で繋がっていた事実と、その時期の記録を未だ大事にしていたいって気持ちはどうしようもない。我が子を愛おしいと思う気持ちの表れが私のそれだということをいつか子供が分かってくれたらそれで充分。そう答えを出しました。ぐるぐる巡る思いがまた同じ所に着地しただけ、なんですけどね。
角田さんの女の内面を描く筆力はいつもものすごいものがあって、その度に女であることの意味を突きつけられます。『八日目の蝉』はその女というだけでなく、家族や血縁というものにまでその意味を問われたように思います。そして事件の加害者だけでなく被害者の生き方にも大きな傷跡を残し、それはいつまでも膿み続け治癒されることは決してないのだということも痛々しく描かれていました。
決して光は見えない、と予想していたラストはしかしやわらかな日差しが差し込んでいました。それぞれの力強く生きよう、とする姿に救われました。
ああ、何だかいつにも増して長い長い感想になってしまいました。同じことを言葉を変えて書いているだけの無駄な部分もあるにはあるんですが、ほとばしる思いを懸命に言葉にしようと努力した結果と思ってください(笑)いつもはこの半分くらいザックリ消してしまうんですが、今回はこのまんまアップすることにします。
読み手ぞれぞれがそれぞれの立場でまたこの作品を思うのでしょう。どんな風な立場でどう感想を書かれているのか他の方の思いも読んでみたいです。
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