私の男 桜庭一樹/文藝春秋
お父さんからは夜の匂いがした。
狂気にみちた愛のもとでは善と悪の境もない。暗い北の海から逃げてきた父と娘の過去を、美しく力強い筆致で抉りだす著者の真骨頂『私の男』。
凄かった。圧巻だった。読み進むごとに二人の過去を追ううちに言葉を失い沈みゆく。
見え隠れする大きな闇、あるいは怪物、その正体と謎が始めは曖昧にぼぅっと佇む。
次第にその正体が形相が暴かれていくうちに私の奥の何かがざわついて落ち着かなくなる。あり得ない、あり得ないけれどこの自然さは何だろう。ねっとりと絡みつくこの物体を見て静かに傍観している自分が怖かった。けれどここに在る女と男の営みはやがて明かされていく二人の過去によってその得体のしれない何かが怖さを増すというよりも哀しくて哀れな切ない気持ちでぎゅっと締め付けられる。何でだろう、何でなんだろう。否定よりも肯定している自分が不思議でならない。さっきから問い続けているけれど答えは闇に紛れていくばかりで、途方に暮れる。
ぽんっと始めに置かれる現在の花と淳悟の、娘と義父のそれは何やら秘密めいていて気持ちをざわつかせる。それは花と淳悟を取り囲む人たちも不安にさせる。この二人に関わったらまるで二人から漂ってくる闇をかぶってしまうかのように。
その心をざわつかせる原因であるだろう、二人の秘密だったりぽつんぽつんと置かれていく謎だったりが章を変えて、一人称で語られる。それは花の視点だったり、淳悟だったり、小町だったり。それぞれの開き始める箱を見てはいけない、暴いてはいけない、と嫌な予感を感じながらも突き進むしかない強力な吸引力。禁忌なものはどこまでも人間を捕らえて離さない。嫌だ、とその足を止めようとしても一方で見届けねば、と強く引っ張る好奇心もむくりと起き上がる。
特に小町の視点で書かれた花と淳悟の慈しみあうさまが、それまで二人の世界に慣れてしまった読者を客観的に戻しハッと目覚めさせる。そうしてどこか歪んだ二人の世界が狂気のものとして映し出される。
冬のオホーツク海の描写が圧巻。凍てつく寒さが心臓をきゅっと縮めて息苦しくなる。それは花の、淳悟の、互いを思う切ない気持ちや時折襲うであろう罪の恐れがこちらにまで伝わるからだろうか。私があまりにもこの二人に感情を入れ込んでしまったからだろうか。
現在から過去へ。そうして明かされていく謎。この構成が素晴らしい。各章で語らせる人物の選択も巧みである。最終章を読み、そうしてまた冒頭へ戻ってみる。そうしてみて初めて時間という抗いようのない切なさ、哀しみがひたひたと押し寄せてくる。
朽ちていくもの、奪うものを失った虚無感。それが所在無くそこに留まって澱となる。
読了日:2007年12月8日
桜庭さん作品のもしかしたら今まで読んだ中で、一番衝撃的なものであり、好きな作品かもしれません。かもしれません、と曖昧に書くのは「好き」と言ってしまうほどじゃぁ好きかと自分に問うてみると果たして声高らかに「好き!」と言ってしまっていいんだろうか、という戸惑いがあるからです。でも一番、です(今のところね)。
それほどまでに凄まじく狂気に満ちた愛がここにありました。狂おしく欲し、奪い合う愛。
私の男、と花は言います。私のおとうさん、と続けて言います。そこには決して越えてはならないものがあるはずで、でも彼らは軽々と何の疑問も躊躇もなく越えてしまいます。その自然さは何だろうか、と違和感を常に感じながら読んでいくと答えがぽつぽつと見え始めて「ああ、そうか。そうだったんだ」とこれは納得してはいけないのでしょうけど、納得してしまう、それだけの深い繋がりがぐっと迫ってきます。読み手は冷静に客観的に読んでいると思いながらも、知らずにこの狂気に満ちたものに魅せられてしまうのかもしれません。
桜庭さんの紡ぐ言葉ひとつひとつ、冬のオホーツク海の圧倒的な存在感、奥尻島の一夜、場面場面の描写に渾身がこめられてそれこそ桜庭さんの血の滲むような跡が感じられて、だからこそ凄みがひしひしと伝わってくるのかもしれない、と思うのです。
最終章はとにかく辛くて、胸が詰まって、花の憎しみが痛々しい。やがてそれを救った淳悟の絶対的な存在として君臨していく様は物凄いものがありました。
桜庭さんが『桜庭一樹読書日記』の中でこの作品を執筆している様子を書かれていますが、その様子を読んで一体どんな作品を、これほどまでの思いをして書かれているのだろうか、とずっと気になっていたのですが…なるほど、と思いました。
それだけの思いが込められた作品、この濃密な世界は強い印象を残していつまでも薄れることはないかもしれません。
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