烏有此譚 円城塔/講談社
灰に埋め尽くされ、僕は穴になってしまった文学界新人賞作家の最新作。
目眩がするような観念戯れ、そして世界観――。
不条理文学のさらに先を行く、新鋭の、やりすぎなまでに先端な、純文学。
装丁に惚れて、タイトルに興味持って、で、円城さんなので(読みたかった作家さん)迷わず手にして本開いて見てまずの感想。「なんじゃこりゃ」。もちろんいい意味での驚き。
本文がありましてその下段に注が書かれているのですけど、注が注としてきちんと機能しているのかというと機能しているのか?と?がまずついてしまうのですけど…。
注がころころとあらぬ方向へ転がって、一体これの元は何の注だったのかとはたと気が付いてみればいつの間にかどっか遠くのほうへ放り出されていたりして。
本来ならば本文読んで注があればとりあえず本文読むの一旦止めて、注読んでふむなるほど、と納得してまた本文に戻るというやり方がきっと正しいのかもしれませんけど、この作品の場合それをやっていると一体どこのページのどの言葉の注だったか、その注がどこに書かれているのか迷子になってしまうので付箋大いに活用しながらの読書でした。
いや、それも途中で訳が分からなくなって非常に効率悪いので本文をとりあえず先に読んで注は後からじっくりと、という方法で読むことにしました。いや、本文読んでいる時の注のチラつくこと。
で、結局本文の理解を求めるための注かと思ったら、これが何の助けにもならず、さらなる混沌の渦にとぐるぐる。
灰の話と穴の話に妙にふむふむと没頭して読んでいる自分が、我に返ったとき可笑しかった。
まず冒頭から「二」で始まって、ん?「一」は?と当然ながら不思議がるのですけど、ここから注を読むと何だかまぁ「二」から何故始まるんだ、「一」はどうしたんだ、という疑問がすっかりどっかに放り込まれて新たな疑問が生まれているという。気がついたときは円城ワールドにすっかりはまっていて「あ、そういえば」と気がついたときにはもうそんなことどうでも良くなっているくらいもっと大きな疑問符がこれでもかと頭の上をぷかぷかしているのでありました。
真っ当に見えた僕の語りが次第に思弁的になり、精神的変調の兆しでこれまで明確に見えていたように思えた世界がくるりと裏返って不安定になる。
注読んでものすごく気になった「ペダルテルノロタンドモヴェンス・ケントロクラトゥス・アルティクラトゥス」とやらを(日本名「デングリデングリ」)を調べてしまった。エッシャーの空想生物。へぇぇ〜面白い!可愛い!てな感じでこの注は非常に興味深いのです。
おおっ、と思わせる作品名なども登場していてこれはこのまま読み終えるんでなくこれからもちょこちょこ読み返してしまいそう。
ところでこの「デングリデングリ」、エッシャーの「階段の家」という作品にこれでもか、と登場していたんですね。お恥ずかしながら調べて初めてこの作品知りました。改めてエッシャーの作品をちゃんと見たい!とエッシャーにまで興味を広げていますです。
円城さんの作品をちゃんと読むのはこれが初めて。
「
SF本の雑誌」に収録されていた短編「バナナ剝きには最適の日々」が秀逸で、いや〜これは好きだわ、と一度ちゃんと読んでみたかったのでいい機会を得られて大変嬉しい。
決してすんなりするすると脳内に入り込む世界ではないのですけど、その混沌としたさまがまた魅力的で。
理解しようとするとより難解になってしまうので、そこは割り切って自分なりに解読すればそれもまた楽し。
読み終えて妙な興奮の中冷めやらずのまんままた読み返している自分。
装丁がとっても良いのです。めちゃくちゃ好きだなぁ。
そしてブックデザイン(本文デザインも)がこれまた名久井直子さん。
恩田陸さん『
私の家では何も起こらない』の装丁もとっても素敵で、わぁ〜なんて思ってたんですが(装丁惚れで選んで読んだのですもの)、実は円城さんのこちらも装丁惚れだったんですよね。で、装丁で惚れて円城さん作品に惚れたという。いやはやこういう出会いってテンション上がります。
名久井さんのデザイン、これからも注目です。
読了日:2010年1月14日
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